昭和44年01月30日 朝の御理解
(常にある日時の案内、御理解などがない。途中から、いきなり始まる。)
ある場合はそれを辛抱していく。ある場合はそれを有り難く受けていく。昨日一昨日でしたか、波多野さんがこう皆さんがこうやって書いておられます、雑記帳のようなものを新しいのを買うてきてから、「先生この上に、つちのこ、ち書いて下さい」ちいう。私はその前の日だったですあのう、あのいつも丁度ご祈念が済んだ頃にみえられますよね。吉井からですから、一番で参りましても丁度御理解が終わった頃です。いっつもそのう波多野さんと熊谷さん二人やって見える。
行きも一緒なら帰りも一緒。というて性格的に大してその、おうておられる訳じゃないんです。時々対立があるんですね。お互い腹かきおう時があるです。そればってんやっぱすぐどくもされたないけん、もうあなた達ばっかりゃつちのこんごたるですばいちゅうたら、それがつちのこちゅごとが分からじゃった、どういう意味か事か、皆さんも知んなさらん人があるでしょう。それからつちのこちゃどげなこっちゃろうかと思うて、そうぅにゃ考えたばってん分からん。
それからあのう熊谷さんに聞きよなさったらしいです。つつのこちゃあんたあのう、みすばござっとばあん時にこうこうやってからするとがつつのこち。片一方は右にいっとる片一方は左さへにいっとるばってん、いっつも繋がっとるち言う事。それけん私ばぁかりごたる風ですね、ちゅうたる風ではぁもうつつのこという言葉があまりにも素晴らしい。と言う訳なんです。成る程私も言いながらね、あのうこう田舎の言葉の中に、時々もう無くなろうとしておる言葉が沢山ありますよ。
その中にとっても何と言うですかね、それこそ土のような感じのね素朴な味わいのある言葉あります。その中の一つにこの今の「つつのこ」というのはいいなぁと、あちらあの俳句をやられますから、そのう俳句の例えばこの俳句集でも作る題には持って来いだと。早速明くる日「先生これに、つつのこ、ち書いて下さい」というて持って来るんです。後でひらがなでね「つつのこ」と書いた。そのつつのこのようなもの。
右と願えば左もう左と右とにずぅっとこうやって反対の方へ、反対の方へ行きよるごたるけれどもいっつも離れてはいない。それでいて今度は御簾なら御簾がどんどん編み上がって行きよるという事。皆さんの願いはひとっつも右と思や左、左と思や右のごとあるけれども、神様にお縋りしぬいて、いわゆる凡夫匹夫の凡夫であるからですね、やはり上から下へ水を流すような訳にゃいかん、下から上へ水を流すほどに難しいのであるからね、そこんところをなら信心辛抱、信心辛抱させて頂いてね。
いわゆる自分の思いを捨てて、あぁあるといいこうあるといいという思いを捨てて、辛抱させて頂きよる内に目には見えないけれども、反対の方へ反対の方へとこうなっていきよる内に、肝心要のその御簾の方が編み上がっていきよると。いつか原さんが頂かれたご理解の中にもある。洋服屋さんね。目の前にあるそのう黒い例えば糸なら糸たが、ミシンをかけなさる時に段々段々減っていく。
そこんところばっかりを見よっといかにも減っていきよるごたるけれども、実際は洋服がちゃんと出来上がって行きよる時だというわけなんです。苦労の糸が段々段々減って行きよる。ですからここんところをですね、ひとつ絶対なもの本当な事として、皆さんがこれを思い込み分からせてもらうとです、自分の言う事を聞かん子供の上にでも、思うようにならない事柄の上にもです、それを神様のご都合に違いない。
本当のおかげはこちらの方へ、目には見えないけれども出来上がっていきよる時だと思うて、信心辛抱する事ができる。そこでです「此の方の道は傘一本で開く事が出来る」というのはどういう事かというと、例え今自分の思う様にならない事もおかげと分からせて頂くということ。お縋りしておってですよお参りしよってですよ、日々お話を頂きよってからですよね、思うようにならない事もおかげであると分からせてもろうて、そこでその思うようにならん事を強引に思うようにしようとするところから。
本当のおかげが破れてくる。けれども思うようにならないという事がおかげであると、分からせて頂くという事が、それが思い込めたら思い込めたら、それが傘一本になる。思い込めたらそれから道は開けて来る。89節と90節が段々こう矛盾でなくなったでしょう。まだ少し矛盾を感じますか。「神のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時は難しい事があっても辛抱していく間には徳が受けられる。」もう実をいうとその右が左、左が右という時程です。
昨日久留米の井上さんがお参りして見えてから、毎朝参ってみえられるね。二度目の昨日のお参りの時でした。ちょうど出掛けようとしょりましたら、四国の姉のところから手紙が参りましたと。あちら四国の方で、このううなぎの養殖とかね、モヤシなんかを作っておられる。それでこの今年の例えばもやし作りの事につきいては、まぁ内場にしたらよいでしょうか、それともまぁ普通通りしたらよいでしょうか。それともまた思い切って沢山作らせて頂こうかというお伺いがあった。
御神意を頂いたら思い切って作ったらよかろうと言う事であった。さぁもういつものそれこそ倍なら倍も作られたに違いないのです。ところがですこのうそのういわゆる暖冬異変ですね、この温かさなんです。それこそモヤシは見事に出来たけれども、売れ行きがもうとにかくトラックで何台というて捨てたと。捨て場に困ったと。というようなお届けがその後にあっておった。はぁお取り払いを頂いて有り難い、これは絶対のおかげだからそのおかげじゃから、そのうおかげである事を言うてやれと言うて。
その時の御理解を書いて向こうに送った。その手紙を見せて頂いてですたい、もう本当に勇気百倍、本当に信心の有り難さというのはこれだと思うた。この頃から御造営の事について色々とご通知を頂いておったけれども、もうその元気も出なかったけれども、元気が出たらもうそれこそ、まぁいうならば沢山な金額をですね、これを御造営費にというて、まぁいうなら損の上塗りのような感じですけれども、そうしなければおられないようなものが、言わば向こうには生まれてきた。
もうそれこそもう喜びを、それこそ勇気百倍の手紙が、昨日一緒に同封して送ってきとります。たった親先生の御理解のあの一言がです、それによって元気が出たとこういうのであるね。これが例えば日々の生活の中に、ちょっと思う事が反対なら、そげな事ならまぁ出来るけれども、例えば今いう御神意まで頂いておってばいね、ほんなら今年は暖冬異変という事は神様は知ってござらん事はないのじゃから、今年はもうしょうぶんにもう少こうしばかり作っておけと。
と例えば頂いておったなら見事であったのに関わらずです、中位でもなかもう思い切って作っておけと。はぁ神様から頂けたんだと思うて思い切って作った。さぁところがそれが全部おおねまりであったという事。その本当に捨て場に困られたちゅう。だからその事を本当に例えば、10万円の損よりも50万円の損の方が、この場合はおかげなんです。めぐりのお取り払いとしてでも頂かれたであろう。神様の御神意どういう御都合があるか分からんとも頂かれたでしょう。
そこから元気な心でその事をです有り難いと思うたら、お礼をさせてもらわなければおられないという心までが生まれてきた。今日そのお届けがありました。ちょうど繁雄さんが来ておりましたから、領収書を書かんならんからもう私封もきらんなりに、その領収書を書きなさいというて分らなかった。だからあれ送って来ておったが、これこれじゃったねと聞いたらこうこうち言う。ありゃそうでしたかち。沢山のお金を送って来ておる。損の上塗り損の上塗り、いうならば損さして頂いた事のお礼をです。
さしてもらえれるという信心。昨日久留米の佐田さんが色々お届けをされる。先生もう本当に私共家庭の者の信心も出来ませんとに、普通でいうたら右と願や左、左と願や右というのが信心のまぁ常識なんだ。これが当たり前なんだ。にも関わらず私の方へは願えばね、願い通りじゃなくて、願えば願い以上のおかげが現れて来る。これは右が左になる、左が右になるのじゃない。もう初めから初めから願いが願い通りではなくて、もう願いが願い以上である。
毎日毎日もう主人がお店から帰って来てからです、今日はこういうおかげじゃったこういう不思議なおかげじゃったと俺は思うち。もう本当に親先生の一番お好きなものばお供えさせて、まぁそういう心が湧いて来るねおかげを受けると。ただ思うようになったではなくて思い以上のおかげが頂けて来る現れて来る。ここん所がその分かると今度はいよいよ89節と90節とのいわば、繋がりというものですたいね分からせて貰える。これはね匹夫の凡人だから中々難しいというのであるのですよ。いいですか。
匹夫の凡人であるからなかなか右と願っても左、左と願ってもみなえである右である。だからそれを教える。一年前にちょうど津田先生が見えた時にね、津田先生の信心を私が申しましたよね。あの時のあのパンフレットを持っておられる方、もう一遍読まれるといいです。あれが例えばもうあぁいう信心あぁいう生き方にはね、めぐりの出ようながない。右と願えば右以上のおかげと言う事、左と願えば左以上のおかげが受けられる。言うならばです右と願って左、左と願ってみりゃ、これはどこまでも匹夫の凡人です。
言うならば本当の信心が出来ん間の事である。まぁだからちょっとしたです、ちょっとしたまぁ見本ですね。例えばならまぁ親子四人、親、子、孫、毎朝朝の御祈念がこうして続いておる。もうこれは長い事続いておる。しかもまた昼も参ってくる、夜も参ってくる。共励会といゃもうそういう辺ぴな所にまで行かれて、遠い所まで夫婦で行かれる。こりゃ形の上の事ですよ。心の上において信心の上においてもしかりの事が言える。いうならばです、もう出来んけれどもです。
出来るだけの信心はさせて頂こうという、いわゆる心構え。これじゃったら神様もですね、もうそれこそ上から下へ水を流すような、おかげが受けられるという事はもう絶対です。ここではもう匹夫の凡人という事じゃないです。もういうならば垢抜けした、匹夫の凡人というのじゃなくてですね、もういうならばまぁ誓った信心とでも申しましょうか。しかも一人じゃない家族を挙げてという事である。いうならばですよ厳密にいうたらありましょうけれども、いうならば水も漏らさんという信心である。
これじゃ佐田さんが言われるようにです、右、願って願い通りではなくて、願い以上思い以上、どんなに考えても不思議で不思議でたまらん。親先生が喜ばれる事ならば、親先生の一番喜ばれる物をお供えをさせて頂きたい。これはいつも佐田さんの心の中にあるもんです。こういう事になって参りますとですね、此の方の道は傘一本で開く事が出来る。と簡単に開けてくる。そういう例えば去年私共がさぁあの津田先生を迎えて頂くね。「信心は御用なり」という事。それがそういう中から生まれてくる御用。
普通で言う御用と違うよ。親先生の一番好きなもの一番好きな事をしたい。親先生が一番喜んで下さる事を言いたい。したい。そしてそれを例えば御用でもさせて頂きたい。そういう念願に燃えるという事。親先生がこうする事をすりゃ喜ぶことは知っておるばってん、こうつい他んところへこうずれずれとそのうずれていく。いわゆる信心には何というても一にも押し二にも押し三にも押しという生き方でなければ駄目なんだ。人の顔色どん見といてから御用どんしょる。
人の顔色どん見といてからお供えをしよる。もうこげな馬鹿な話はなか。信心が消極的なるとそういうものになって来る。ですから私はんなら佐田さんの信心がそのう完璧とも思わないし、お水も漏らさんという言葉を使ってきたとも思われない。けれどもそこはそこで気付かせて頂いて、お詫びならお詫びの信心でとにかくなら家族が挙げてです、その事に焦点を置いて、日々の信心の稽古をさせて頂いておるという生き方こそです。もう一年前に頂いた津田先生の信心です。もうこれはめぐりの出ようがないのです。
もう匹夫の凡人じゃないですね、津田先生あたりの信心は。もう抜けて抜けて抜けきっておられるという信心。だからこれならばそれこそ傘一本で開ける道なのである。ところがそういう事がお互い出来んから、しようと思うても家族の物が言う事を聞かんから、からね私はこの第90節があるとこう思うのです。いわゆる平凡な信心というのを今申しましょうか、いわゆる匹夫の凡人であるという、信心であるから暇が。それは上から、下から上へ水を流すほどに難しい。
けれどもですそこんところを、それを神様の御都合と、せめてここんところだけでも頂いて下さいと今日ね。本当な事ですからね。自分の思うようにしようという思いを捨てなきゃいけません。これは我情を捨てる事なんだ。子供ば自分の思うようにしようと。こういう計画をしておる事を計画通りにしようと。それが邪魔どん入りよるならそれを例えば、叩くような生き方ではいけないとね。それば神様の御都合として頂いて、これはもう本当な事なのですから、いわゆる先「つちのこ」の話じゃないけれども。
右と願っても左左と願っても右とあるけれども、その間に御簾を奉らせて頂くというかね、その辛抱をしておる間に徳が受けられると言うておられます。これは普通一般私共の信心を頂いていくいわば生き方なの。信心辛抱しておる間に徳。ならその信心辛抱をしておる間がですね、それをはがいいとか情けないというような心ではなくて、辛抱しておる間を神様の御都合、目には見えないけれどもこうやって影の方では、さっさと御簾が編み上げられていきょる時であると、信じる事は本当な事を信じる事である。
そう思う事は本当な事を思うのであり、思い込む事はいよいよ、そこからですね思い込む事はその事が苦にならない、その事が腹が立たない。はぁこりゃ神様の御都合ばい。とすぐ思えれる。そして自分の思いを引っ込めれる事が出来る。それをがむしゃらに自分の思いを先に出さして出そうとするところにです、対立が生まれる。これでは信心をしておっても、私しゃ信心をしておる値打ちがない。どうでしょうか。
こうやって頂いて参りますと、ここに八十九節と九十節がもう、実際に読んで見ると非常に片一方は、いとも簡単に開く事が出来ると言うておられるのに、片一方は匹夫の凡人から開くのじゃから、ものが難しくて暇がいる。だから神のおかげで開かせてもらうのぞと。例え一時は難しい事があってもね。辛抱して行く内に徳が受けられる。という信心。ね。ですからここ今日皆さんに聞いて下さった中からね、段々ここのところの矛盾がなくなる。どちらにもなるほどが、合点がまあぁっただろうと思います。
もし行かない人はもう一辺繰り返し頂いてみて下さい。そして金光様のご信心というもののあのう在り方とでも申しましょうか、お願いがしたが最後絶対神様の働きはあっておると確信しなければならん。それは自分の思うようにではなくてそれこそ、親先生にお取次も頂いて御神意まで頂いてしておるのに、神様も神様たい。ほんに一番悪かつばね、まぁちょこっとばっかりつくっときなさい位ならよかばってんか、まぁせめてなら真ん中くらいに中くらいにしときなさい。
もう普通、普通にしときなさいち言うならまだ、つらんかわはよかばって、ほんなもう思い切って作れでしょうがね、井上さんのあの高松の場合。だからもう向こうは神様が言いなさったけんと思うて思い切って作ったところが、さぁトラック何台というしこ捨て場に困るほどの結果がうまれた。そこんところを皆さんですね、せっかくおかげを頂かせるならですね、50万おかげ頂かせるよか、100万おかげを頂かせたいから思い切って作れという神様の言葉を一つ本当に分からにゃいかん。
お取次を頂いてお願いをしてからこういう事が起こってと言う事ではない。お取次を頂いておかげを頂いて、本当のおかげを頂きたいという願いが、強ければ強い程です、そうした神様の働きもまた頂けれる。けれどもそういう例えばんなら修行をせんでも済む道がある。それはもう自分達が本気で頭から、しかも家族を挙げて御用に打ち込む。いわゆるここで言うなら簡単なまぁ今例を申しました、佐田さん一家のような生き方で行きゃですね、願いが願い以上のおかげになっていくという事は事実。
例えば去年の津田先生のお話を頂けば分かるだろう。ここはもう匹夫の凡人というのではなくてです、もう本当に垢抜けした信心という事になるのである。そういう信心をさせて頂くならです、成る程傘一本で開く事が出来れる道もまたあるのである。ところがめぐりが邪魔をしてですね、本当に家族を挙げての、あぁもしたいこういう信心なっと思うけれども、中々その先日高芝さんの宅祭りで申しましたけれど。
いまも家族勢を揃えて信心をしておるけれどもです、銘々がいっちょん焦点が一緒じゃない訳です。子供は向こうを向いておる。一人はこっちを向いておるという様な事で、なら勢を例えば皆んなが信心しとりますというだけではいけないという事。方向を一つにしてです、それがここで信心になる、そこにですならやはりめぐりを感じんわけにはいけません。しようと思うけれども出来ないという。
なら出来ないところをです、こりゃぁ例えば高芝さんであるならばです、夫婦がねこりゃぁやはりお父さん神様の御都合に違いないですよと。子供達が同じ思いになってくれないそこにも、神様の御都合があるに違いはないとあるからとして、それを有り難く頂く信心になっていくところからですね、神のおかげで開かせて頂く道が開けてくる。その辛抱をしておる間に身に徳が受けられる。という事にもなるですね。
どうぞ。